地域情報

渡嘉敷村

市町村概要

【地理的概要】
渡嘉敷村は、県都那覇市の西方32kmの北緯26.11°東経127.21°に位置し、慶良間諸島の中で一番大きな島が渡嘉敷島で南北9㎞・東西2㎞・周囲19.6㎞・面積15.8㎢の細長い島で、有人島はこの渡嘉敷島と前島の2島となっている。ほかに神山島・ナガンヌ島・黒島・儀志布島など大小十余りの無人島を含めて、総面積19.23㎢で渡嘉敷村は形成されている。
島の9割ほどが丘陵地で山深く渓谷が多く水が豊富なため、古くから稲作が盛んに行われ現在おいても島の農業を支える基幹作物となっていて、それによる田園風景が他の離島には見られないのどかな雰囲気を醸しだしている。

【地域概要】
渡嘉敷島は、中央部から北側にかけて200メートルを越す山々が連なり、丘陵地の間にあるわずかな平地に渡嘉敷集落が形成されており、南側にかけてはだんだんと低くなっており、南向きに開けたビーチを望む平地には阿波連集落が形成されていて、中央部の低地を除けば山の急斜面や絶壁が海に迫り、海岸線の所々に砂浜が見られ南国特有のリーフが多く形成され、透明度が高くケラマブルーと世界から称賛される海域が広がっている。
昭和53年に沖縄海岸国定公園に編入され、サンゴ礁が発達し魚種が豊富に生息しているとして平成17年にラムサール条約湿地の指定を受け、世界屈指の透明度を誇る海、高密度に生息する250種以上の多様なサンゴ礁、ザトウクジラの繁殖地であることなどが高く評価を受け、平成26年3月5日(サンゴの日)に全国で31番目の国立公園として指定を受けた。

【地域的特性】
本村における商業活動は、農協を除いては家族経営の小規模な店舗が主で食料品や日用雑貨を取り扱っており、これらの商品のほとんどが沖縄本島からフェリーで運ばれている。年は、地域の素材を取り入れた特産品やご当地メニューの開発が進み、それらを販売するお土産品店や飲食店も増え村経済の活性化の一翼を担っている。
また、建設・運輸・製造・石油やガス等の事業は、取り巻く社会情勢がめまぐるしく変化していくなか、厳しい経営を強いられているのが現状である。観光産業は、村経済の主軸で特に若年就業者の割合が高く、これから最も期待される分野であります。
本村の観光入域客は夏季に集中するのが特徴であり、年間10万人を越える入域客があるが、近年では沖縄本島で宿泊し日帰りで島を訪れる観光形態が増え、宿泊施設の稼働率低下を招いているのが現状である。
高速船の就航やフェリーのバリヤフリー化など利便性や快適性の向上が図られ、恵まれた美しい自然を活かし「美ら島とかしき」を提唱し、島を訪れた人々が宿泊したい、再び訪れたいと思ってもらえるよう、これまで以上の心からのおもてなしが求められる。

【歴史的特性】
明治41年地方制度の改正で沖縄県島尻郡渡嘉敷村となり、大正9年一般町村制が施行され村長・議会議員選挙が実施された。
昭和16年に太平洋戦争が勃発、昭和20年3月に米軍が渡嘉敷島に上陸し砲爆撃や集団自決等で329人もの尊い命が失われた。
昭和23年に新選挙法による村長及び議会議員の選挙が行われ、同年市町村制の公布により戦後はじめて自治制が確立された。
前島は、かつて人が住んでいたが、台風災害や自然条件の厳しさから島での生活に見切りをつけ、昭和37年12月までに島民全員が沖縄本島へ移住し一時無人島になっていたが、平成15年5月に数名の住民が移り住み再び有人島となった。

【文化的特性】
渡嘉敷村は、明治36年に鰹漁業が操業され徐々にその規模を拡大し、全国的にケラマ鰹節が評価され島の若者のほとんどがこの仕事に従事したが、米国統治か時代に軍作業への労働力の流出が続き次第に衰退した。
また、古くから豊富な渓流水を利用した水田での稲作が行われ、その稲わらを使った大綱引きが毎年旧暦の6月に行われ現在まで継承されている。
現在では、慶良間太鼓同志会による創作和太鼓や、村青年会によるエイサー及び渡嘉敷節保存会、フラダンスグループなどの文化活動が盛んに行われ、とかしきまつりやとかしきマラソンなどのイベントの際に華を添えている。
島の農作物や野山の果実及び海産物を活用した特産品(お土産品)の開発が行われ、特に近海マグロを使ったマグロジャーキーは生産が間に合わないほどの人気商品となっている。

渡嘉敷村Webサイト

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